広瀬川の個性を読み解く

地域の歴史や現状を調べ、まちづくりの課題や活用したい魅力資源などを整理する

河岸段丘…広瀬川が創りだした時間の造形

広瀬川によって、(川に近いものから)下町段丘・中町段丘・上町段丘の3つの河岸段丘が形成されており、境には崖面が見られます。

中町段丘が直接広瀬川と接する場所もあり、大きな高低差が生まれ、雄大な景観が見られるなど、仙台ならではの地形がここにあります。

河岸段丘…広瀬川が創りだした時間の造形

広瀬川を挟む「見る/見られる」関係

藩政期、伊達政宗は、仙台城から広瀬川を挟んだ対岸の河岸段丘(中町段丘)上にある大名小路(片平丁)に沿って、重臣の侍屋敷を配置していました。また、青葉山に築城された本丸には、城下を一望できる御懸造(おかけづくり/清水寺のように崖に突き出した建物)を造りました。

ここに、広瀬川を挟んで城下を見る、仙台城から見られる、つまり「見る/見られる」の関係がありました。藩主と侍の良い緊張関係があったことでしょう。

 しかし、現在は、街から青葉山(仙台城跡)を眺めることができる場所は限られています。また、青葉山(仙台城跡)からの眺めも乱雑に建ったビル群が見えるのみで、「見る/見られる」の関係が意識しづらくなっています。藩政期から受継がれ的な眺めとそれを大切にする想いが薄れてきているのではないでしょうか。

広瀬川を挟む「見る/見られる」関係

伊達藩の掟が「杜の都」の基礎

藩政期、城下を取り囲む丘陵地の一部である青葉山(このページ下部に掲載している写真の左側の山)は、仙台城本丸からの退路の確保のため、人の出入りが禁じられていました。明治維新後も軍用地であり、人の手がほとんど加わることのない場所でした。

そのため青葉山には、モミの原生林や希少種などを含む様々な植物が生育し、鳥類の他多数の動物も生息しています。1972年には、国の天然記念物に指定されました。現在は、東北大学植物園として一般公開されています。

青葉山は、奥羽山脈から連続する森林として、カモシカなどがやって来る貴重な仙台の緑地となっています。

伊達藩の掟が「杜の都」の基礎

日常生活から遠退いた広瀬川~仙台都心の移り変わり

下の図にあるように、明治維新後の近代化の中で街の中心が広瀬川周辺から、現在の仙台駅のがる西に徐々に移ってきました。

残念なことに、現在の広瀬川周辺は市民の生活との関係が薄く感じられるエリアですが、歴史性や自然の豊かさからすると、間違いなく新たな杜の都の顔としてもっとも相応しいエリアと考えられます。

日常生活から遠退いた広瀬川 ~仙台都心の移り変わり

視野を広げて世界と比べる ~さまざまな楽しみが享受できる場所

世界の主要都市、ニューヨーク・パリ・ロンドンは、都市の大きさは異なりますが、生活に潤いを与える公園や文化施設、河川などやそれらを巡る遊歩道があります。

仙台も広瀬川を中心にこのエリアを見直すと、濃密な歴史や自然が秘められるていることに加え、美術館や博物館、図書館、植物園(所有はさまざま)などの施設があり、遠くからアクセスするための地下鉄も整備されます。

広瀬川を中心としたこのエリアを見直すと、他の都市と勝るとも劣らない、「セントラルパーク」の姿が見えてきます。

視野を広げて世界と比べる ~さまざまな楽しみが享受できる場所